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シドニー生活を発信するブログ

【海外在住者の葛藤】祖父が死んだけど結局葬式にはでなかった

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じいちゃんが死んだ。

仕事中に母親からラインで連絡がきていた。母とはほぼ連絡をとることがないので何かあるとすればだいたい悪いニュースだ。案の定、祖父が亡くなったという知らせだった。

さて、ここで問題なのは僕がシドニーにいるということだ。日本国内にいるというのであればどこにいたとしても実家のある青森に帰るのはそんなに大変ではない。しかし、オーストラリアにいるとなかなかそうもいかない。
いや、別に帰ろうと思えば次の日にでも帰ることができる。葬式までには時間があるし、8時間飛行機に乗っていれば東京に着く。でも僕は帰らないことにした。

 

いくらお金を払っても死んだ人にはもう2度と会えない

なぜかというと飛行機のチケットがものすごく高いのだ。青森まで帰ると往復で10万円超えるんだ。それは無理。薄情に思えるかもしれないけれど、そこが重要なポイントなんだよな。飛行機が無料だったら帰ってるかもしれないもん。
それに帰ったところでじいちゃんはもう死んでるわけで。いくらお金を払ったって死んでしまった人にはもう会うことができない。青森に帰ったところで、そこにはじいちゃんの死体があるだけなんだ。本当に大切な人とは死ぬ前に会っておくべきだな。

 

青森に帰るために使われるはずだった10万円は僕がシドニーでもっと有意義に使うことにする。そっちのほうがきっとじいちゃんも喜ぶはずだ。と思ったけどじいちゃんは死んでしまったのでもう喜んだり悲しんだりすることはできない。
死ぬということはなんと惨めで恐ろしいことだろうか。動くことも考えることも出来なくなって焼かれて骨になってそのうち忘れられる。僕もあと50年もすればそんな恐怖を諦めることができるようになるんだろうか。青森で生まれて死ぬまで貧しく暮らして、じいちゃんはどんな気持ちで死んでいったんだろうか。

 

僕は青森で貧乏暮らしなんてまっぴらごめんなので高校を卒業してすぐに上京した。気づけばオーストラリアのシドニーで暮らしている。生活はいまだに苦しい。リッチになったとはとても言い難いが、これからいくら裕福になったとしてもじいちゃんにはもう会えなくなってしまった。
お金があれば大抵のことは解決できるというけれど、こればっかりはどうにもならない。

 

死んだ人間に払う金と時間ほど無駄なものはない

じいちゃんの葬式には帰らなかったけど例えば母親が死んだとして僕は葬式のために実家に帰るだろうか。ばあちゃんが死んだら? 叔母や姉が死んだらどうするだろうか。社会的な体面を保つために帰ることもあるかもしれないが、基本的には帰りたくねぇ。
親族が嫌いなわけではない。どっちかというと好きなほうだ。でもそれは生きているからだ。死んでしまったらもう僕にはどうしようもない。

 

常識的には帰って葬式に参列するべきなんだと思うが、死んだ人間に払う金ほど無駄なものはないとも思う。
死んだ人間を葬るために10万円と数日の時間をかけて帰省するなんておかしいと思う。ましてや葬式や仏壇仏具にお金をかけるなんてまったくの無駄金だ。最低限でいい。別に個々の宗教観を否定したいわけではない。でも死んだ人間が生きている人間を助けたことなんて歴史上1度もない。

 

だから1親等が死んでも2親等が死んでも基本的には帰りたくない。もともと親の死に目には会えなくてもいいと思って海外に来ている。だからこそどうせ帰るなら生きているうちに会いたい。


葬式なんてものはスカイプで中継してくれ。

 

薄情者が田舎の町に

葬式に参列するということは死者を悼むということもさることながら、どちらかというと死んだあとの事後処理を担当する親族をヘルプするという役割が大きいと思う。場合によってはものすごく面倒だったりする。葬儀屋を決めて葬儀の日取りや場所を決めて火葬場を抑えて役所仕事をして、と悲しんでいる暇さえなかったりする。相続やらなにやらが絡むともっと酷い。

 

そこに海外在住の親族がヒョコっと帰ってきたところでおそらく何の役にも立たん。いくら親等が近いからといって喪主なんて任せられるはずがないし、最悪、自分で宿の用意もできないただの客人にしかならない。


慌てて帰省したとしてもただ迷惑をかけるだけになるかもしれない。まぁでも人が死んでいるわけだし、親族なんだからちょっとくらい迷惑かけてもいいんだろうけど。

 

人もいつか死ぬなら誰に何を残せる

親族が亡くなった場合、海外在住者は日本に帰って葬儀に参列するべきか。という問いに対して僕はNOと答える。もちろんその答えは人による(多分ほとんどの人がYESだ)。ただ、僕は死んでしまったらもう話すこともできないのだから帰ったって意味がないと思う。
魂や幽霊なんてものは信じないけれど、だからといって物理的な距離だけが家族の絆というものではない。どれだけ遠くにいたとしても死を悼むことはできるし喪に服することはできる。

 

人間というのは不思議なもので、死んでしまった人がどう思うか、なんてことを考えたりする。僕が葬式に行かなかったことでじいちゃんはどう思っただろうか。死んでもなお物事を考えることはできるんだろうか。僕に帰って来てほしいと思っただろうか。
しかし、どんなに想像を巡らせても死んだ人間はやっぱり喜んだり悲しんだりはできないのではないかと思う。僕が帰ったところで、じいちゃんはそんなことは認識できないのではないか。
海外在住者が本当にやるべきことは葬式に駆けつけることではない。生きているうちにもっとじいちゃんばあちゃん(もしくは親兄弟)と話をしておくことだ。

 

じいちゃんが死んでもあまり悲しさはない。

じいちゃんは僕が生まれた時からすでにじいちゃんだった。彼にも若い頃があったなんて想像もできない。戦時中に生まれて随分長生きした。数年前から体調は良くなかったようだけど、何度も死の淵から復活してきた。今回はそのまま死んでしまったけれど、もう充分生きた。と思う。孫も曾孫もたくさんいるしな。
でももう少し話をしておけば良かったな。どうやって生まれて、どうやって暮らしてきたのか、もっと聞いておけば良かった。
悲しくはないけどちょっと寂しいな。